科学を見つめる瞳
文/鈴木せいら 写真・構成/佐々木康弘
※写真本文中2枚目はSSH事務局が提供
科学を外側から見る
東京で20年間、科学雑誌の編集や企業・公的機関などのPRにフリーランスで携わってきたという輝かしい業績。第一線を走ってきた人は、いったいどんな空気の持ち主なのだろう。取材前に抱いていた緊張感は、田柳さんの笑顔を前に吹き飛んでしまった。素顔の彼女は、会う人をリラックスさせる魅力的な女性だ。
もともと理系ではなく、社会科学という文系の立場から科学技術を伝える仕事をしてきた。「外側からのジャーナリスティックな観点」、それが田柳さんの芯になっている。常に客観的な興味を持って、科学というものを見つめてきた。
40代で一念発起し、大学院へ進学。科学技術と社会の結びつきを考える科学コミュニケーションを専門に、博士論文では、愛知万博で政府系研究機関の研究者たちが一般の人たちと直にふれる技術を提供するプロセスを分析した。学位取得後、公立はこだて未来大学東京サテライトオフィスを担当する特任教員に就任。はこだて国際科学祭をはじめとするサイエンス・サポート函館(SSH)の事業にも携わるようになった。その頃は、週に一度講義のため東京から函館へと通う日々。田柳さんは、そんな苦労も苦労ではなかったかのように、「気付いたらいつの間にかここにいた、という感じ」と軽やかに笑う。
2011年には、東京サテライトオフィスを離れ函館に居を移した。「函館は暮らしやすい。人とすぐ繋がりを持てるところが良いと思います」。技術者倫理などの講義を担当する傍ら、以前にも増して科学祭の運営に深く関わるようになった。
科学祭への取り組みのなかで
2009年にはじめて開催された「はこだて国際科学祭2009」で、田柳さんはサイエンスライブというメインイベントのひとつに携わった。元国立天文台台長の海部宣男さんと函館出身の歌手あがた森魚さんをゲストに招いての華やかな催し。その司会進行を務めた。「大人のための科学イベント」というコンセプトのもと、音楽とお酒を楽しみながら、星空や宇宙のロマンに思いを馳せる。田柳さん自身、心から楽しいひとときを過ごし、すっかり科学祭に魅せられてしまったという。「この経験が忘れられず、翌年から本格的に運営委員となりました」
2010年からは科学寺子屋という3日間の集中講座の責任担当教員に。この寺子屋の参加者から、「科学楽しみ隊」というボランティア組織が自然発生的に発足した。「寺子屋ではフィールドワークに出て、サイエンスクイズラリーの原案を考えてもらったのですが、その段階ではまだ内容が煮詰まっていなかった。楽しみ隊メンバーがボランティアで、イベントとして実施できるまでに創り上げてくれました」
2013年に急逝したSSHの仲間である渡辺保史さんが当初から目標に掲げてきた「市民が創る市民のための科学祭」の理念を、「科学楽しみ隊」と一緒に実現できたという。楽しみ隊は今では自立した組織として活動している。
2011年からは、シリアスなテーマも扱うフォーラム「科学夜話スペシャル」の企画運営も手掛ける。「震災直後の夏、NHKのディレクター七沢潔さんを招いて放射能汚染について語ってもらいました。七沢さんは、チェルノブイリ、東海村と原発事故の取材に長年取り組まれている方。震災直後の福島でもすぐ現地入りして、政府発表前に高濃度汚染地域を発見し、『ネットワークで作る放射能汚染地図』という番組を制作されています。科学夜話スペシャルでは、七沢さんからこれまでの取材を通して知った事実、問題などをお話して頂いた。このフォーラムをやり終え、大きな達成感を得ることができました」
自分への問題提起
SSHの重鎮として、順調に数々のイベントを成功させてきた田柳さんだが、いま、更なる発展のために自分自身を見つめている。田柳さんが考える自分らしさとは。
「私はもともと、科学界の裏側にある仕組みの深さや、科学者たちは何を考えているのかといったことにジャーナリスティックに切り込んでいくのが好き。そういう視点に立ち戻ってみようかと思っています。
人が生活するなかで、どの国でも『土着の知』を媒介に子供たちは科学を覚えてきました。例えばノルウェーでは、イルカ漁を通して子供たちはいのちを殺して食べることの尊さを理解します。科学技術にはそういうことが内包されていなくてはいけない。なのに、現在の科学は、土着の知から切り離されている。科学とは本来、地域に根付いて生活する人々の『知』を敬い、寄り添うものであるべきだと思います」
もっと自分らしく科学の本質に迫りたい。田柳さんの瞳は、まっすぐに科学と社会の未来を見つめている。
2014年3月取材